バカは死んでも治らないなら、性格だって死んでも変わらない
「私と付き合うことで、彼氏の心を入れ替えさせてみるから大丈夫」そう言って何度浮気され、金を要求されても別れることなく奮闘して、最後には無理を悟って自分から身を引いた女性がいた。
人は変われない。たとえ他人から見て圧倒的に変わったと思えるような人でも、意外と変化したように見える外殻を新たに纏っているだけなのだ。新しい内面を本当の内面の上にかぶせているだけなのだ。
生まれ持った性質や、育った環境による思考力は絶対不変であると僕は思う。少なくとも僕は変われなかった。特に昔から心の何処かに潜めていたマイナスを見つけてしまったあの時からは、マイナスを意識してしまい頭から離れてくれない。
兼ねて、以前どれだけ健常であろうと、深いマイナスに陥ったら這い上がれないと思う。僕がそうであるだけだから、何も断定はできないのだけど。たとえどれだけ小さくても、持ち合わせているだけでマイナスは連鎖する。
いくら値の大きなプラスを掛け合わせても、導き出させる解は以前より大きなマイナスの値になってしまうように。では、マイナスとマイナスを掛け合わせればプラスの気持ちになるのではないだろうか?
言いたいことはわかるが、その意見に首を縦に振ることは僕にはできない。なぜならマイナス同士の掛け算によく使われる論法は、マイナスはプラスの反対であるということに起因している。
つまりプラスは表、マイナスが裏だとすると。マイナス同士の掛け算がプラスになるのは「裏の裏は表」のような論法になるということだ
これを感情に当てはめても、上手くいかない。プラスがポジティブ、マイナスがネガティブだとして、ネガティブをネガティブに解釈しても何も生まれないのだから。
ネガティブ思考はこの世における絶対不変のマイナス値。これに気づいてしまった人は上手く付き合える自分だけの方法を見つけなければ潰れてしまう。僕のように。
多くの人はネガティブな感情を無視したり気づいたネガティブが大した大きさじゃないと軽く受け流せるのだ。そしてそれができる人間は当たり前で、僕にとっては特別で、僕を社会不適合者に足る人間であると証明する資格になってしまった。
人は変われない。話はそれてしまったが、彼女も、その彼氏も、僕も、本質的な部分では今も変わることができていない。どうやったらこの気持ちに整理を付けることができて、まともな人間として生きていくことができるのだろう。
あとがき
今回の題目は「人は変わることができるのか」です。僕は変われないと思っています。少なくとも個人における本質は数年単位とかで変化するものではないと思っています。僕が今躓いている根底の理由はたった一つで、それは思い起こすと何年も前から伏線となっているものでした。今となって本性を現したとでも言うべきでしょうか。
話で出てきた彼女とその彼氏も、たぶん変わらないのだと思います。変わるのは環境で、僕たちを受け入れてくれる環境でなんとかもがいていくうちに環境に適応できる新しい外殻を身に付けなくてはいけないのです。
そうして死ぬ間際に「僕はあの時変わってよかった」と思える瞬間がある人だけ、もしかしたら本当の意味で変わることができる初めての個人になるのかもしれません。死ぬまでわからない僕の本質と、向き合っていこうと思います。
手続きが苦手で意識してしまう。
僕は手続きが嫌いだ。入学、入会、入寮、入社。どうであれ、一歩踏み出してしまうことでなんとか心の安定が保てている今の生活が壊されるのが本当に嫌いだ。弱い人間だから、環境の変化にすぐやられてしまう。
手続きというものは、僕のような心の弱い人間にとっては段階的に立ちはだかる壁になる。書き進めている内に、この書類を1枚書き終えてしまうごとに一歩ずつ近づいてくる新しい環境に染まらなくてはいけない恐怖、つらいことに自ら立ち向かわなければならなくなる悲観がたまらなく恐ろしい。
なぜ辛いことに自分から立ち向かわなくてはならないのか?そこまでして自分を陥れなければ生きていけないのか?入社の面接のときに辛いことがあってもやっていけるか念押しされるだけで面接をしてる最中でもかなり嫌になる。はい、私には耐えられませんので帰らせていただきますと言いたくなる。
社会に出るということはなぜ辛いことなのか、みんなが辛いことはいやで、心を痛めつけられたくないと思っているのになぜこの社会は所属するものにきつく辛いまま変わることがないのか。僕が知っている社会が偏見に満ちたものだからだろうか?
辛いと分かっている社会に出て会社に所属することの覚悟を問われて、なぜ今社会に出ている人々は普通に働けているのか、なぜ同期はそんな恐怖に立ち向かい、内定を勝ち取ることに喜びを感じているのか。弱い僕にはわからない、みんなが自分とは違うとてつもなく強い生き物に見える。
社会に出るのが怖い。でも人は生きるうえでそれを当たり前にそれをこなさなくてはいけなくて、ストレスと圧力に擦切られた人としての残りカスを人は人生と呼ぶみたいだ。僕にはこれからさき、その人生に則ることはできるのだろうか。
あとがき
今回は入社手続きを行うことで、社会に出る恐怖に一歩一歩近づく怖さを感じる僕の思いを執筆いたしました。僕は本当に弱い人間で忍耐力がありません。そして辛いこととか疑問不満を自分の中でため込む典型的な報連相のうち相談のできない社会不適合者です。
でも冷静に考えて、自分のようにやりたいことが明確でない人が社会に出るということは、実はすごく勇者的な行動なのではないかと思っています。だって、オフィスワークをすれば毎日怒られたり、接客業なら色々な性格のお客さんと向き合うことになるんですよ?すごく怖くないですか?
でも結局のところ、嫌われない人はいないし、怒られない人もいない。人間はそうやって生きていくしかなくて、社会に生きる生物として弱さに鈍感になるしか人は生きられないのです。がんばりたいです。
閑話休題。
ところで、ここでこのブログはなぜ小説調で書いているのかということだが、それは単純に筆者がやりたいようにやってみているからである。作者はもちろん小説が好きなのだが、それはまた別の機会で話すことになるだろう。
改めまして、ここで自己紹介です。
久しぶりにブログを書いてみたのですが、いまだに結構恥ずかしいもので、どうやって書いたらいいかわからなかったので自分の考えていることを自分という他人の目線で書けば恥ずかしさが軽減したり、その時の気持ちとか客観的に見ることができるのかなと思ってこのような書き出しになりました。
基本的にはこのブログには、自分が経験したことに対しての考えを中心に書きたいと思っております。ひとしきり言いたい事言ったらあとは急にくだらないことばっか書くようになるかもしれません。たぶんなります。
めちゃくちゃネガティブな書き込みをした翌日にめちゃくちゃしょうもない記事を書いたりしますが、気分の移り変わりが激しい人なんだなと簡単に片づけてください。本当に思ったことそのまま書く場所が欲しかったんです。
それと、なるべく毎日更新していきたいと思っているので、一回の記事のボリュームとしては小さめの物をたくさん発信していきたいと思っております。これは単純にやりすぎると自分が疲れてしまうから、というのと、有用な記事であっても長いと何となく読む気なくなるから、という意図があります。
最初の記事からめちゃくちゃヤバいやつに見えるネガティブめな記事を書いたので、ここにきてヤバい奴だと思われたままではいやだなと思ったので自己紹介をさせていただきました。最後になりますが改めまして、これからよろしくお願いいたします。
後悔を安売りしたくない。
「前職をやめたことを後悔していますか?」
「いいえ。全くしていません。」転職活動中、この質問が決め手で採用試験に落ちたことがある。理由は前職の早期退職に対して反省が足りず、定着性に懸念があるということだったそうだ。
僕は早期離職をしたが、そのことに関してこの先何度後悔したかと問われても、同じ答えをするだろう。前職は過酷な労働環境だった。大半の人がその過酷さに同情をし、大半の人が退職までの期間と職種を見て忍耐力がないと言う。僕も自分に忍耐力があるとは思わなかった。そこは同意だ。
でもその仕事をやめたことに関して後悔したかといえば、それは確実にNOなのだ。やめたくないと思ってやめたわけではない、やめたいと、やめなければと思ったからやめたのに、そこに後悔をしてしまったのならば、本当にただ何も残らなくなってしまう。
後悔をするとすれば、自分に納得のできるまでまだ戦うべきだったという事だ。入りたくないと思った企業に流されるままに入社するべきでなかったことだ。社会のレールからは既外れているのだから、泥臭くやりたいことにしがみつけばよかったのだ。
勿論早期離職には反省しているし、忍耐力はなかった。どの程度の過酷な労働に耐えれば世の中を切り抜けられるのかもわからなかったし、これから先にどんな苦労があるかなどわからない。
だが自分の決断は間違いではなかったと言えるように努力をしなければならないのは、確かだ。自分で決めた決断は一番大切にしなければならないし、自分の決断に恥じない生き方をしたい。
後悔・・・自分のしてしまったことを、後になって失敗であったと悔やむこと。
あとがき
何かを選択をする場面では大抵後悔というものが付きまとうもので、どっちを選んだ方がより後悔しないかみたいな感じで選択していくと思うんです。
そんな中で僕は前職を離職する決断をしたわけですが、結局全く後悔していません。前言撤回というわけでもありませんが、中には後悔が全くない選択もありますよね。もしくは後悔すべきはそこでなく、それ以前の事柄にするべきであったり。
選択に後悔の余地を残すのではなく、間違えてもいいから自分で考えて考えて結論を出して、今を生きる上で必要な選択であったと笑い飛ばせるようになれるといいですね。僕も。
何でもできるから何にもなれない人。
「やればなんでもそこそこにできるせいで、何者にもなれずに苦しんでいる人は、少なからず私の周りには多くいて、そう考えると私は幸せなのかもしれない。」
僕の好きな作家がそんなことを言っていた。この言葉を見たときに、あぁ、僕も彼の言う「何者にもなれない人」なのだと思った。
正直僕は勉強に置いてはある程度まんべんなくできた。学生のときの成績表は5段階評価で4.2、テストにおいては、毎回90点以上を取れる科目があるわけではないが、平均的にどの科目70~80点はとれるような生徒であった。
こういう生徒に限って、教師からは勉強面において放任され、同級生からは勉強で苦しんでいることを理解してもらえなかったりする。サンプルケースは僕だけだから、あまり断定した口調で語るべきでないのかもしれないけれど。
僕が不幸だったのは、大抵まんべんなくできる上に、結構真逆ともいえる多方面への方向性に興味があったことだ。大学を選ぶ際は、工学部か文学部で迷った。さらに言えば選択肢として美大も可能性を考えていた。すべて興味があることであり、また学力で選択肢を絞ることはできなかったのだ。
最終的な選択で工学部を選んだのだが、結果的に言えば僕は勉強に挫折して失敗した。つまり今までの傲慢な選択肢は、勉強ができているように見える錯覚によるフィルターで、傲慢でしかなかったのだ。
何でもできる、ただ選択すればいいだけだと思っていた僕は、勉強ができないうえに何者でもなかったのだ。
あとがき
今回は僕の勉強のお話です。高校のとき、自称進学校の定期テストでは高水準でいたため結構自由に生きてました。でも、結局は、今勉強ができるできないじゃなくて、何がやりたいかを明確に持っている人に成果がついてくるものだと今更わかりました。
とは言いましたが今受験生で将来に向かって勉強をしている人は、わけがわからなくても勉強していた方が良いと思います。大学を受験するまでに目標が持てていれば重畳であると思います。
一番不確かだと思えるインターネットで答えを探す。
かねてより人に自分の気持ちを伝えるのが上手ではなかった。それは今も変わらず、しかし自分の気持ちを誰に言えば自分を震撼させる解答が得られるのか、回答から学ぶことができるのか。それがわからなくなった僕は、10年ぶりにブログという手段に回帰してきた。
人生というものが自分の中でどうあるべきなのか、という生涯という長期間の回答時間を設けて悩むべき課題に就職活動という人生の比較的早い段階で来るライフイベントに直面した今、すでに悩み始めてしまった。
本来はここで深く考えずそれなりに自分で妥協して当たり前に就職するのが流れなのだと思う。でも僕は違う、当たり前を理解していれば行き当たらないような失敗を何度かしているせいで、これから先を生きていくために必要な支柱が何本か腐食してしまった。
したいことがない、けれどしたいことを仕事にしなければたぶん同じ失敗をする。圧倒的に経験が足りない。でも次に失敗すれば本当に後がない。失敗をしないように時間を設けても後がなくなる。他人には理解してもらえないし、理解してもらえなかった。どうすればいいのかわかってるだけにどうしようもできない。
どうしようもなく期限だけが迫ってる今、少しでも逃げ道を作るためにブログを始めることにした。
最後になりましたが簡単に言うと仕事、やりたいことについてひたすらに悩むだけのブログになると思っております。はてなブログさんの最初の記事を書いてみましょうという非常に平和な導入にすら従えずこんな感じになりましたが、よろしくお願いします。